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徳久克己先生 『甘露の法雨』解釈
91 【大逆転】愛人を引き取った本妻に起きた本物の奇跡
チャプター
00:00 徹底的な愛の結末と本妻の妊娠
02:29 新聞紙1枚や薄い本から始まる救いの縁
03:45 真の信仰とは「形」ではなく教えの実践にある
06:08 万教帰一:観音様・キリスト・住吉の大神の正体
08:04 火災から家を守った「実装」の信念と奇跡
12:15 谷口雅春先生の熱誠と「実相」の額がもたらす守護
15:10 観世音菩薩の本当の意味と住吉の大神の真理
要約
前回の講話に続き、愛人の妊婦を自宅へ引き取った本妻のその後の奇跡が明かされます。奥さんの圧倒的な真心の前に居心地を悪くした愛人は自ら去り、その後自然流産したことで夫との縁も完全に切れました。そして、人の子供まで愛そうとした奥さん自身に、ついに念願の妊娠という素晴らしい奇跡が訪れます。 講話ではさらに、形だけの僧侶や盲目的な信仰に陥ることを戒め、生活の中で真理を実践することの重要性が説かれます。火災の渦中であっても「我が家は燃えない」という確固たる実装の信念、あるいは観音様への信仰心が、物理的な奇跡を起こして家を守り抜いた具体的な体験談が紹介されます。 最後に、仏教の観世音菩薩、キリスト教の白発の老(永遠のキリスト)、神道の住吉の大神は、すべて「生長の家の神様」が姿を変えて現れた同じ一つの存在(万教帰一)であり、人間の救いを求める声(世音)に応じて現象世界に現れてくださるものであると締めくくられます。
92 「キリストによらねば救われない」の真意とは?
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 神の時・場所・人に応じた現れと救いの念波
01:23 聖書における「キリスト=真理」の解釈
03:43 キリスト誕生以前の人間が救われないという矛盾
05:32 永遠の真理と各宗教の共通性
07:14 霊的実相を悟ることによる人類の救いと喜び
12:04 あらゆる宗教の本質は一つであるという結論
要約
本講義では、生長の家の徳久克己先生により、聖典『甘露の法雨』の一節に基づいた宗教の超宗派的な本質が解説されています。神や仏、観音、キリストといった存在は、すべて同じ一つの宇宙の真理(神)が、時代や場所、人々の信仰の程度に応じて姿を変えて現れたものであると説きます。
特にキリスト教における「キリストによらなければ救われない」という言葉について、「キリストとは肉体ではなく真理そのもののことである」と解釈します。肉体に執着して特定の宗派のみが正しいと主張すると、キリストが誕生する以前の人間や他宗派が救われないという矛盾が生じ、天国と極楽の間で争いが起きてしまうと指摘します。
人間は肉体ではなく永遠の生命を持つ霊的存在(実相)であり、この真理に目覚めることこそが真の救いと喜びをもたらし、人種差別や宗教対立を超えた世界平和につながるという核心が語られています。
92b 病気は「直す」のではなく「消える」もの?
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 深い真理を知ることで変わる人生と薬の例え
00:34 真理から使わされた天の使いと迷いを破る光
01:09 生命の実相を悟ることで闇(病)が消え去る理由
02:31 道とは何か、老子の思想と道にそむかぬ生き方
03:00 道元禅師の言葉「山にあらず、これを山という」
03:41 物の見方の固定観念を外すこと(コップの例え)
要約
本講義では、徳久克己先生が『甘露の法雨』に説かれる「真理」と「道(みち)」の深い意味を解説しています。私たちは自分が救われた経験(特定の薬や宗派など)に執着しがちですが、本質的な救いとは何かを紐解きます。
「真理」とは迷いの闇を破る光であり、私たちが神の子であるという「生命の実相」を悟ったとき、不完全な現れである病気や貧乏という闇は、直すというよりも「闇が消えるように消え去る」ものであると説かれています。
さらに、「道」について老子の思想や道元禅師の「山にあらず、これを山という」という言葉を引きながら、私たちが持つ固定観念の枠を外す重要性を語ります。コップを単なる器としてだけでなく、神の愛念の現れとして捉え直すように、一つの見方に縛られず柔軟に物事の本質を観ることの尊さが示されています。
93 固定観念を外して人生を楽にする「自由自在」の極意
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 決めつけない柔軟な生き方と物の見方
00:43 価値観の固定観念を外す(お茶碗の例え)
01:54 道に執着しすぎると本来の道を見失う
02:16 嘘をつかないという正直さの落とし穴
03:16 正直すぎる医者が患者を追い詰める例え話
04:00 真の道とは宇宙に満ちる自由自在なもの
05:17 感情やこだわりから解放される楽な生き方
要約
本講義では、徳久克己先生が『甘露の法雨』の解釈を通して、物事や生き方に対する「固定観念」を外すことの重要性を説いています。
私たちは無意識のうちに「これはこういうものだ」と決めつけがちですが、例えば使い古されたどんぶり鉢でも、使い方や見方を変えれば茶器として愛されるように、価値は固定されていません。徳久先生は「道」についても同様で、「嘘をついてはいけない」という正直さという道徳心でさえ、固執しすぎれば相手を苦しめる結果になり得ると指摘します。
本当の「道」とは、決まった形に縛られることではなく、宇宙に満ちている自由自在で円満なものです。「こうでなければならない」というこだわりから解放され、柔軟に生きることこそが、衝突を避け、自らも楽に生きるための鍵であると語られています。
94 正しさに縛られるな!子供や妻を自分の型に押し込める過ち
チャプター
00:00 本当の道とは「自由自在」であること
02:16 融通の利かない教えや型は人を遠ざける
03:58 親の型に子供を押し込めてはいけない
07:22 無門関の教え:レールの上の汽車と融通の利かない生き方
10:46 あらゆるものを生かす道こそが「本当の道」
11:34 夫婦の間で型を押し付け合う間違い
13:42 マッチ一つで大爆破した過去の傲慢さと妻への反省
要約
今回の講話では、『甘露の法雨』の「無門に」という一節から、本当の宗教の悟りとは「自由自在」であり、何ものにも縛られないことであると説かれます。私たちはつい「こうでなければならない」という1本のレール(型)に執着しがちですが、融通の利かない生き方は、向こうから走ってくる汽車(予期せぬ問題)と正面衝突して自分も相手も不幸にしてしまいます。 徳久先生は、親が自分の型に子供を押し込めようとすることの窮屈さや、ご自身の父親との思い出を交えながら、人間を特定の型に閉じ込めることの過ちを指摘します。本当の道とは、あらゆるものを生かす道であり、障害のない自由な世界です。 後半では、先生ご自身が過去に「妻は夫に従うべき」という教えの表面だけに囚われ、奥様に自分の型を押し付けて衝突した生々しい失敗談が明かされます。マッチや新聞の受け渡しをめぐるユーモラスながらも深い気づきを通して、正しい教えであっても融通を欠いて相手を縛る道具にしてはならないという、生活に根ざした真理の実践が語られます。
95 なぜ、過保護な子育ては子供をダメにするのか?
1. チャプター(タイムスタンプ)
00:00 徳久先生の告白:妻に怒ってもすぐに畳へ頭を下げて謝る理由
01:50 貫禄をつけようと無理をすると肩が凝る:相手の実相を信じて自由にする智慧
02:45 谷口清超先生の奥様の言葉「愛とは相手の実相を満たすことである」
03:20 意見が違うことと争うことは別:民主主義のルールと熱意の証拠
04:30 子育ての根本:禁止や過保護が子供の潜在意識に「自己減票」を作る弊害
05:50 失敗や火傷を経験してこそ魂は高まる:自分で責任を持たせる教育
07:45 自由の中で良いことを選ぶからこそ本当の誇りと喜びがある
09:05 天地の道は一本道ではない:雷、台風、雪、雨、すべてが必要に応じて現れる
10:15 「和解せよ」「怒るな」という一本道の教え(形)に引っかかる罠
12:00 名古屋の学校の先生の事例:怒ってはいけないと抑圧して声が出なくなった病
14:15 怒りたい時は怒ればいい:一本道のレールを外れて心が自由になった瞬間の奇跡
15:20 夫婦喧嘩ができるうちはまだ見込みがある:本当の「自由自在の道」とは
2. 要約
本講話において徳久克己先生は、「こうしなければならない」という窮屈な一本道のレールに縛られることなく、誰もが本来持っている生命の自由をのびのびと発揮する「自由自在の道」の真髄を説かれています。徳久先生はご自身の夫婦関係を例に挙げ、無理に貫禄をつけようと相手を抑えつけるのをやめ、生まれて初めて妻に畳に頭を下げて謝った時にどれほど心がのびのびと楽になったかをユーモアたっぷりに告白されます。谷口清超先生の奥様が遺された「愛とは相手の実相を満たすことである」という言葉の通り、相手を枠にはめずに自由にしてあげることが真の愛です。この原理は子育てにも共通しており、親が先回りして失敗を禁止したり過保護に育てたりすると、子供の潜在意識には「自己減票(自己否定)」が形成され、将来伸び悩む原因になります。あえて失敗や火傷を経験させ、自分の行動に自分で責任を持たせる自由の中にこそ、人間は自ら正しい選択をする本当の喜びを見出します。天地の自然が晴れだけでなく、雷、台風、雪、雨と変化するように、人間の心もまた一本道ではありません。「生長の家では怒ってはいけない、褒めなければいけない」という教えの「形」だけに凝り固まり、怒りを無理に抑圧した結果、声が出なくなってしまった学校の先生の生々しい事例を引き合いに出しながら、先生は「怒りたい時は怒ればいい、喧嘩ができるうちはまだ見込みがある」と断言されます。「こうせねばならぬ」という心の縛りを手放し、お互いの意見の違いを認め合いながらのびのびと生きることこそが、他人も自分も生かす本当の調和(和解)であると、会場の笑いを誘いながら力強く語られています。
96 【運命劇変】神様に100%頼んだ瞬間に奇跡は起きる!
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 宗教的な本当の救い:人間の努力を超えて神様に頼む安心感
02:15 神の遍在と時間・空間の超越:過去・現在・未来に満ちる本当の人間
04:02 「父母未生前の本来の面目」:禅の公案と永遠の生命の真理
06:53 キリストの言葉に隠された真実:アブラハムの生まれる前から「我はある」
08:21 無我(ノンセルフ)の壁:欧米人に東洋の「無」を伝える私たちの役目
11:56 「死せる者は死せる者に葬らせよ」:肉体を超越したキリストの精神と生長の家
14:29 融通無碍の生き方:一つの形式に固執せず、臨機応変に全てを生かす本当の道
要約
本動画では、徳久克己先生が『甘露の法雨』の教えを基に、自分の力だけで心を変えようとする人間の努力(科学的な救い)を超えて、大いなる神様にすべてを委ねることで得られる「宗教的な本当の救い」と、時間・空間を超越した「永遠の生命」の真理を語っています。
前半では、「神様に頼む」ことで生まれる絶対的な安心感こそが不思議な奇跡を起こすと解説。本当の人間(実装)は肉体ではなく、時間も空間も超越して宇宙に満ち満ちている存在であることを説きます。さらに、禅の有名な公案である「父母未生前(お父さんお母さんが生まれる前)の自分はどこにいたか」という問いを引き合いに出し、この肉体が自分ではないと知ること、すなわち「無我」を悟ることの重要性を示します。
後半では、イエス・キリストが残した「アブラハムの生まれる前から我はある」という言葉が、まさに禅の公案と同じ永遠の生命を指し示していることを解説し、仏教の深層とキリスト教の核心が一つに繋がっていることを明かします。また、キリストが弟子に放った「死せる者は死せる者に葬らせよ」という一見冷徹に見える言葉の真意は、肉体という虚妄に執着せず、生きている霊(生命)を救うことにあると力説。生長の家が葬式などの形式に捉われずに始まった精神を語りつつ、谷口雅春先生が逝去された愛弟子を抱きしめ慈しんだエピソードを紹介します。最後に、一つの形式に凝り固まらず、臨機応変にすべてを生かしていく「融通無碍」な生き方こそが、本当の神の国(実装)の道であると結んでいます。
97 囚われを捨てて自由自在に生きる「実相」の悟り
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 自由自在なる「実相」を悟る
01:00 谷口雅春先生の囚われない生き方
02:30 「仏」とは「ほける(解ける)」こと=解脱
04:20 潜入観念から離れて自由になる(ブラジル開拓団の例話)
08:15 「我は命なり」生命のない物質に命を求めない
09:25 「我は救いなり」神に無条件で頼むことの宗教的救い
14:55 神の遍在:過去・現在・未来を超越した本源
要約
本講義では、『甘露の法雨』の一節を通じて、人間が本来持っている「自由自在な実相(本当の姿)」を悟ることの大切さを説いています。 前半では、物事や概念に凝り固まらず、何が起きても即座に心を切り替えられる「解脱(仏=ほける・解ける)」の境地について、谷口雅春先生の日常の姿やブラジル開拓団の具体的な例話を交えてユーモラスに解説。後半では、「我は救いなり、我に頼むものは悉くこれ(実相)を摂取す」という言葉に焦点を当て、自分の力で心を変えようと力む前に、まずは神に無条件で「頼む(祈る)」ことこそが真の宗教的な救いであり、奇跡を起こす近道であると語っています。
98 聖書と禅が繋がる瞬間:肉体を超えた「永遠の命」の自覚
チャプター(タイムスタンプ)
00:00 肉体を超越した「本当の人間(永遠の命)」
00:50 禅の公案「父母未生以前の本来の面目」
04:00 イエス・キリストの言葉と「禅」の共通点
06:30 物質的肉体は自分ではない
08:50 「死せる者は死せる者に葬らせよ」の真意
10:15 谷口雅春先生の姿と冠婚葬祭への囚われ
12:50 徳久先生の医師としての経験と生死の観察
14:30 『甘露の法雨』が説く、人間は「神より出でた光」
要約
本講義では、『甘露の法雨』に示された「時間や空間を超越した本当の人間」について、キリスト教の聖書と仏教の禅の思想を結びつけながら深く解説しています。 徳久先生は、禅で最も有名な公案の一つである「父母が生まれる前の自分(父母未生以前の本来の面目)」を例に挙げ、この問いに対する答え(=人間は永遠の命であること)を、実はイエス・キリストが聖書の中で既に明快に説いていると指摘。肉体や物質が自分ではないという「無我」の境地を知ることで、キリストの「死せる者は死せる者に葬らせよ」という一見冷徹に見える言葉の真意や、生長の家が説く「人間は神より出でた光である」という実相が深く理解できるようになると、ユーモアを交えながら温かく語っています。
99 融通の利かない人は自他共に疲れる!自由無限の「本当の道」とは
1. チャプター(タイムスタンプ)
00:00 神と人間は一体であり人間もまた心理より出でたる光である
01:43 キリストやお釈迦様と人間の本質・実相における平等性
03:00 五感の世界を去って実相の世界に入り神と一体の自分を自覚する
04:00 形だけの神想観と実相を自覚する本物の神想観の違い
05:35 レール上の汽車と融通の利かない道の本質
06:48 クソバカ正直と自由無限なる天地に満ちる道
07:33 あらゆるものを生かす道と型にはめる教育の弊害
08:20 夫婦関係における「型にはめようとする心」の失敗談
09:20 成長の家に入りながら妻への不満を我慢していた若き日
10:20 庭での落ち葉焚きとマッチの貸し借りから起きた夫婦の爆発
11:41 自分の言葉の癖が妻の姿として鏡のように現れていたことの気づき
2. 要約
本動画では、徳久克己先生が『甘露の法雨』を基に、神と人間の一体性、そして日常生活、特に夫婦関係における鏡の法則と「融通性」の大切さをユーモアたっぷりに語っています。
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神人一体の真理: 神様が霊であり愛であり智慧であるならば、そこから出た人間もまた霊であり愛であり智慧の存在です。キリストやお釈迦様、そして私たち人間も本質(実相)においては同じ「神より出でたる光」です。神想観とは、病気や不調和のある「五感の世界」を去り、神と一体である本来の自分を自覚するためにあるのです。
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天地に満ちる道は自由無限: レールの上を走る汽車は安全に見えますが、融通が利きません。「これしかない」と一本の型に執着する道は本当の道ではなく、融通が利かない生き方は自分も周囲も疲れさせます。人間は本来自由な存在であるため、子どもや夫婦を自分の決めた型にはめようとすると、強い反発や不調和が生まれます。
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夫婦の鏡の法則と実体験: 徳久先生は若き日、妻を自分の理想の型にはめようとし、不満を我慢した結果、庭での落ち葉焚きの際「マッチを取って」と言われた些細なことで大爆発してしまった失敗談を明かします。しかし数週間後、自分が寝ながら「新聞取って、新聞」と無意識に2回繰り返して命令していたことに気づきます。妻の「マッチ、マッチ」という言葉遣いは、実は自分の姿がそのまま映った鏡であったと深く悟る、笑いと涙の学びが語られます。
100 お釈迦様やキリストもあなたと同じ!自らの内に輝く「実相の光」を現す極意
チャプター
00:00 谷口雅春先生のテープが持つ高いリズムと権威あるお声の響き
01:33 イエス・キリストの言葉に宿る「神からくる権威」と信念・体験の力
02:57 地方講師や先生に頼らず本やテープで真理を学び集会を発展させる方法
04:22 谷口先生のテープを100回聞き暗記して自分の言葉にする本当の学び
05:12 天の使いも我々も同じ「神(真理)より出た光」であるという実相
06:12 実相世界においては人間も釈迦やキリストと本来一体である真実
06:48 よそに神を求めるのではなく自分の中にある神(実相)を見つめる重要性
07:43 教育の本質とは人間の内なる実相(本当の姿)を引き出してあげること
08:38 太陽と日光の例えにみる源泉としての神と人間の一体不可分な関係
09:44 我々は物質の光ではなく神から出た「霊・愛・知恵の光」の塊である
10:41 すべての問題を解決する神想観の正しい心構えと念仏にしない自覚
12:51 アメリカの成功法則(マイヤー)にみる無限の可能性と成長の家の共通点
13:55 水槽のガラスにぶつかり諦める魚の例えに見る人間の思い込みの限界
要約
本動画は、生長の家の徳久克己先生による聖経『甘露の法雨』の解釈講義の第100回目です。徳久先生は冒頭で、生長の家創始者である谷口雅春先生のお声のテープには、深い信念と信仰、そして神からくる絶対的な「権威(オーソリティ)」が宿っており、その rhythm と響きが人々の心に強く作用すると語られます。地方の集会などでも、講師に頼るのではなく、こうした素晴らしいテープや本を何度も繰り返し(暗記するほど100回でも)聴き込んで自分の言葉にすることによって、自然と自らの話にも権威が生まれ、集会が発展していくのだと教えられます。
講義の本編では、聖経の「人間は神より出た光である」という一節に触れ、実相の世界においては人間も天の使い(天使)も、お釈迦様やイエス・キリストもすべて同じ「真理から出た光」であり、本来一体であると説かれます。人間は自分の外側(神社仏閣や仏像など)に神を求めてしまいがちですが、本当の信仰や神に頼ることの本質とは、自分の内側にある素晴らしい「実相(本当の姿)」を見つめ、それにすべてを任せきることです。教育の本質もまた、相手の不完全さを正そうとするのではなく、内なる実相を引き出すことにあります。太陽と日光が切り離せないように、神という光源と、その光である人間は本質的に一つであり、人間は物質的な光ではなく「霊の光、愛の光、知恵の光の塊」そのものであると強調されます。
最後に、これらすべての問題を解決するのが生長の家の独自の瞑想法である「神想観(しんそうかん)」であると説かれます。ただし、形だけの「念仏」のように唱えるのではなく、五感の世界を去って実相の世界に入り、「自分は神の無限の知恵と愛に満たされている」という強い自覚と身を入れて行うことで初めて、あらゆる現実の問題が解決へと向かいます。アメリカの成功法則(ポール・J・マイヤー)に見られる「人間に宿る無限の可能性」の理論を引き合いに出しながら、水槽の中で透明なガラス板に何度もぶつかるうちに、ガラスを取り除いても「もう先には進めない」と思い込んでしまう魚の例え話をユーモアたっぷりに紹介されます。過去の失敗や思い込みという見えないガラスに囚われず、自らの中にある神の無限の力を信じて発揮していくことの大切さを、温かく力強いトーンで説かれています。
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テキスト: 新講「甘露の法雨」解釈
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